今日の気づき

身体と心の気づき

令和2年3月31日
失うものがあれば得られるものもある。陰と陽には森羅万象通じるものがあり、其の規模に値するものでもある。自然とは、太古の昔からそのようにして成り立ち、形を成しては破壊し、自然=意思 の働きが何らかの存続を意図している。人類も、その役割の一つにしか過ぎない。だから自然という意思からなる意図には抗うことはできない。しかし、それもこれも全てが自然という流れの一部なのだろう。

令和2年3月26日
今日の稽古で座り一点接触からの崩しに三度進展があった。
背面の意識と、左右の使い方に足が加わることで、さまざまな方向から一気に崩すことが可能となり、いなされず留まることなく余裕を持って崩すことが出来た。

令和2年3月22日

座り一点接触からの崩しに更なる進展があった。ロードバイクのKさんを後方へ飛ばすことができた。背面の意識であるが、今後はさらに研究したい。

令和2年3月19日
両手を重ねた誘対法で、これまでになく深い状態を経験した。
集中と呼吸がこれに関わってくると思われるが、その他の要因もあると思われる。数ヶ月ぶりにおこなったことも関係していると思われるが、瞑想に近い、いや瞑想といえる心身の落ち着きと、僅か10分足らずであるが、終了後暫く目を開けられないほどの状態となり、特に大きな動きはないのであるが、全身が弛み、立っている状態が、真っ直ぐに立っていることを実感出来るものとなった。身体を伸ばしたり体操的なものは一切していないが、心身の状態が僅か10分足らずでこれほど変わるのかと驚いた。

令和2年3月18日

体術稽古で、座りによる一点接触からの崩しに大きな進展があった。
相手が有利な膝立ちで立っている姿勢からでも後ろに崩せ、さらに立って中腰にこちら側へ重心を掛けて押し込まれている状態からでも正座から押し返すことが出来た。

令和2年3月17日
「生きていることそのものが逆境である」
恩恵も報いも陰と陽のようにかならず付いて回るものである。
だからこそ、問題をどう解決していくかという事を自得して行かなければ生きていくことが苦しくなってくる。その自得をどう積み重ねて行くかが本来の学びであろう。
つまり、生きて行くという逆境の中で、問題解決に必要な自得を学び続けて行くということが、人が生きていく上で求められているものと言える。

令和2年3月14日

「気が付いたことは運命であり気が付くことも運命である」
その時は辻褄に沿っている

令和2年3月13日

「中心と向き合い中心を練り中心を使い中心を労る」
技法の根幹部はここにあるように思う。
ここで言う中心とは、全てを遡った地点であり、その中心というものを探求しながらこれをおこなう必要がある。つまり中心というものを実感し知り続けて行くことではないかと思うのである。
「一人稽古で規矩をつくり、対人稽古で中心を練る」
勿論これだけに留まらないが、稽古の根幹部にあると言える。

令和2年3月11日

「中心を取ることと摺り足の関係に気がつく」
「身体は真っ直ぐに使うことで中心圧力を掛けやすい」
「中心感覚を練る稽古は抜刀術や納刀の精度を高める」
本日は、中心についてさまざまに稽古した結果分ったことである。
中心を取る、或いは中心圧を掛けるには、見かけ上の水平方向も大事であるが、姿勢と左右の足裏に掛かる重心の偏りも大きく作用している。それにともない、肘が身体から離れてはいけないことにも納得がいった。

令和2年3月10日

「目から得ただけの情報はじきに居心地が悪くなる」
目の情報に繋がる身体の居心地を感じ取り、そこで得たものから目を切り離すこと。解ったということは身体を通して居心地よく実感できたものであり、居心地を実感出来ないものはただ同じようにしていても、それは解った内には入らない。
見抜くもの、原因究明には目の先にあるものでなければ気が付けないものである。
現代の最たる問題は、目に見える情報のみで思考を働かせる習慣を世界中の人に植え付けてしまっていることにある。
それはすなわち、居心地の悪さに陥っていくスパイラルとなっており、目の情報というものは、魅力的で直ぐに心地よく感じられるものであるが、その実、本来の心地よさの置き所はその先にある実感への信頼であり、目先の情報というものは実感に至らぬとらわれを生じるものであり、信頼出来るものではない。結局のところは自分と向き合い、そこに生ずる居心地から何を思うかが本当のところであるといえる。人はそれを無意識に避けようと習慣付けられている。

令和2年3月5日

「考えを当て嵌め過ぎず行けそうなところにいく」
「身体ができて感覚が生まれ無意識が統御する」
昨日の戸越体育館での稽古で発した言葉であるが、身の規矩(かね)が出来て来れば、無意識的な予測が規矩に働き掛けてくる。その働きこそが技への手がかりであり、理屈と経験だけでは得られないものなのである。

令和2年3月3日

「自己完結型思考は登山の途中で見える景色に妥協しそこで止めてしまうようなもの」
つまり諦める理由を自分に納得させるようにしているということ。子供の成長が早いのは一つには、自己完結に逃げる経験がまだ無いからである。

令和2年2月29日
講習の合間の一時間で、剣術の「正面斬り」が変わった。
腕を上げる際に上体が沈む働きのあることが解り、そのまま沈ませることを先行させながら、振り下ろすことで今までに無いほど、楽に剣が振れるようになった。見た目には殆ど解り辛いが、実感としては大きく異なる。皮が向けるほど思わず何度も振ってしまった。

令和2年2月27日
抜刀術が大きく変わる事になった。
非常に難しくなるが、上達のために今よりもっと下手になるのを覚悟しなければならない。
静から動への瞬間的な移行を目指したものから、ヌルッと把握し辛い動きに全てを変更することにした。数年前に考えた事もあったが、技としての技たらしめるものを感じていなかった(未熟がゆえに)ためやろうとも思わなかったが、今日の稽古で色々な要因がようやく「居合い」というものに微かに近づけるものになるのではないか…という、そんな気配を感じた。

令和2年2月24日

そうでありたい環境に近づけたのなら、応えてあげられるものへと変われるよう努めなければならない。常に一瞬が試されている。

令和2年2月23日
想定は、その先に対応し辛いものである。だが、いつの間にか想定を立ててしまう。想定が甘いからなのか、想定に縛られているからなのか、その両方であろう。想定のレベルを上げるなら、想定しない対応力を養っていかなければならないように思う。守りやパターンというのは、既に何かが変わってしまっている。

令和2年2月20日
目で見たものを如何に身体で感じられるか。
また、そのようになっていく稽古を重ねていかなければならない。

剣術で構えによる剣の理に興味が向き始める。構えには一長一短があり、各構えに応じた理合いがあり、それを探りながらも、「一つの構え」というものを見つけたい。各構えに対する各構えの応じ方があり、そこに多くの流派が考えたであろう秘伝がある筈である。そうした理合いに甘んじることなく技法を追求し、一つの構えへと通じていければと思う。

令和2年2月17日

数メートル先の段差を右足で跨ぐか左足で跨ぐか分かるのも無意識の予測ではないだろうか。
また、その右足か左足かの感じ方も不思議なものである。

最後の瞬間を無意識で身体が予測して動いている。

抜刀術などは、予測を育てる稽古であるが、その予測とは、意識的なものでなく、無意識の計算を働かせている。

シンプルな動きの中で、身体(無意識)が意識に伝える違和感や心地よさというものを、常に確認し進展させ続けて行くことが、各種動きに繋がり、それはすなわちその人にとっての基本の動きと言えるのだろう。
基本が進展せず、変わらないものであれば、身体が進みたがっている違和感を意識に訴えかけても基本が足を引っ張ることになってしまう。
基本には、言葉による思い込みが介入しやすいものであり、自らが基本を作り練り上げていくことが重要かと思う。

令和2年2月14日

「脳との対話」
心の状態を安定に保つには脳(無意識)からのサインに耳を傾けてあげられるかに関わってくる。 逆に心の状態が正常に保たれていない場合は、そのサインに耳を傾けず気づかずに末端の意識だけで言い聞かせているだけである。 そこに知識や情報というものが尚更我の意識を強くしてしまう。知識や情報は必要であるが、自らが自らを探知するには邪魔となる場合が多い。 お腹が空いて何をどのくらい食べたいか、体のために何を食べたいか、そうした欲求が強く関わる声には毎日応えようと務めているが、その他のサインには、感じようとしないものである。その代償はさまざまに表れるものだということを私たちは知っておかなければならない。

令和2年2月11日
「表裏の見眼」
これは昨年暮れごろに気がついた、目に誘われるものは表、目で見ず眼で観たものが裏。その表裏一体となったものが技であり、人であり、全てに通ずるものごとの本質であるとみなす。技の理解、人の理解に通じるのもその表裏の見眼にあり。

令和2年2月10日
「隙がないというのは、隙を出しながら見事な対応をおこなうことに本来の隙のなさがある」
また、「誘いを掛ける」というのは、単に虚を示すのではなく、相手の腹積もりや本質を見極めるための手段ともいえるだろう。

令和2年2月9日

「どこに目付けができるか」
合わせる必要のないものに考えを巡らせないこと
その労力は、目の付け所に向けた方がいい。

令和2年2月6日
体術「触れ手落し」が昨日5日の稽古で大進展した。
これまで、受け手が強く耐えていた状態では潰せなかったが、今日は受け手側も身体が強くなる術理を駆使し、さらに半歩足を出していただいた状態でも膝がつくまで潰すことが出来るようになった。これにより突きも威力が向上し、体術における発力の基盤を練る稽古が見つかったように思う。大きな一日であった。

令和2年2月5日
「言わないことと訊かないこと」
これで十分に通じるものがある。否、だからこそ通じるのかもしれない。
見習うとは安易なものではない。

令和2年2月4日
「どこまで捨てることができるか、忘れることができるか」
流れが自然であるならば、成長に応じて、感覚に応じて、習得した時(当時のレベル)のものを頼りにしてはならない。基盤となるものは、常に感覚的に追求し、進展に陰りが感じられるなら、それは大きな変革を身体が求めているものである。自らの脳にある記憶の引き出しは常に点検整理しておくこと。執着と捉われは妨げとなる。そのことに気が付けるか。

令和2年2月3日
「行き(生き)詰まったときは感謝する」
目標や希望には、人間の行動を突き動かすエネルギーとなっているが、そのエネルギーに見合った結果が訪れないと、決めたはずの行動に対するエネルギーが変わってしまう。当初の希望エネルギーが尽き、代用品として犠牲のエネルギーが我が身を消耗させながらそこに誤った思考を植え付けてしまう。状況の変化、流れの変化は自分ではどうする事も出来ないので、目標や希望は生きていくエネルギー源として必要であるが、明るいエネルギーが足りなくなってしまったときには、一旦現状を見渡し感謝することで、幸福のボーダーラインを設定し直すことが出来る。そこに向かって希望エネルギーとともに再度歩みだすことができるのだ。このボーダーラインを固定せずに上昇下降させながら、感謝と幸福の実感を得て行けることがその人にとっての救いにも繋がる筈である。

令和2年1月30日
これは気づきというよりは、想像であるが、所謂身体の中を使うということは深層筋の働きを使っているが、この使い方を工夫しなければ身体がガチガチになり易くなり、首、肩、肘、などへの怪我のリスクを高めるものとなる恐れがある。そのため、中を使いながらも分散させ、誤った実感(固まった=力を発揮した)というような事を繰り返さず、それよりも有効なものへ工夫し自得できるような取り組みが必要である。そして、杖術というのは、使い方によっては硬くなる恐れがあるが、武術としての操法でありながら同時に身体調整のための操法でもある。これは可動域を広く使うことで深層筋を解す働きが動きの中にあるからだろう。杖整体操も深部に届くものであるため、それらを合わせた稽古というのがこれからも稽古を淡々とおこなっていくためには欠かせないものであると、このところ強く感じ始めた。

令和2年1月26日

講習に向う電車内でフト思ったが、全く関係の無いことの発想や行動というのは、自らを守るための無意識的自衛手段とも言えるかもしれない。表裏のバランス感覚として己を保つものであるが、その内容によっては逆効果もありうる。

令和2年1月23日
昨夜の全身を廻(めぐ)らせる身体の使い方で、身体が温まり体の強さを確認できた。
小太刀では「引込み潰し」という技が生まれた。

令和2年1月22日
昨夜、松聲館での稽古で身体の新しい使い方を学んだ。
それを本日の稽古で試みたところさまざまにこれまでにない強さを身体が実感出来た。
帰りの電車内で、足の使い方を自分なりに検討したところ、身体に活力が湧き、帰りの道中にもそれをおこないながら歩いたところ寒いはずなのに身体が熱くて驚いた。この足も含めた全身の関連性は明日の稽古で試してみたい。

令和2年1月19日
「武術稽古は自省を促すものである」
深夜に記事を書いていてそうした考えが頭に浮ぶ

令和2年1月16日

「曖昧な加減を探る」
新宿スポーツセンターでの一人稽古時に感じたこと。
実感だけに判断を求めてしまってはならない。実感のない曖昧な部分を探り、その加減の中で発見できるものがあると思われる。今はそこに新たな眼を向け、現時点を超えて行きたい。
【抜刀術】
「天神抜き」では、鞘を出さずに構えられるようになった。
転換と落下が身体に入る。
「津波返し」では、以前は合致しなかったが前足の指を抜いて使えるようになった。
抜刀では、右手首の角度も初動の伝達には重要である。心理的居着きより優先出来るものとなった。

令和2年1月15日
「意味のある一冊」
昨日4.5㎞をゆっくり走りながら、本には読むべくして読むものがあるのだと、それが今までのこと、これからのことを整理させてくれるものであると気がついた。人との出会いがあるように、本との出会いにも不思議なタイミングがある。

令和2年1月12日
7㎞走った後、部屋で袈裟斬りを始めた際、背中の使い方に新たな実感を覚える。
これは、先日木曜日におこなった袈裟斬りの余韻があったのか、まだ私の中に諦めていない部分があったのかもしれない。しなりを諦め開閉となったのであるが、肩の痛みが幸いしこれに気付かせてくれたものであり、まだこれが採用となるのかどうかは、相手を付けて稽古をおこなってみなければわからない。こうしたことは日が経ってみて不採用となることもしばしば起こりうるので。

令和2年1月9日
「利害関係とは、利害が一致するだけではなく、利もあれば害もある関係性である」
状況とともに利害は逆転し、足枷となる場合もある。安易な利害関係は持たぬこと。

令和2年1月6日
「淡々と続けられる中で機能していくものとその見極め力」
淡々と続けられることの力は今までにも感じていたが、あらためて動きを変えてみたときに、これまで淡々とおこなっていたものの機能性に気がつく。だが、何を淡々とおこなうかを誤るとそれは寧ろ弊害となる。今夜の稽古で試したいと7㎞走りながらそういうことを考えた。


令和2年1月4日

「意識と身体の近づき」
身体が育たなければ意識も育たず、意識が育たなければ身体も育たない。意識と身体が近づくこと、それが無意識を育てるということなのかもしれない。1/3稽古帰りの深夜に思う。

令和2年1月3日
深夜に記事を書いていて、「対にあるものに時間をかけられるか」という事に気づかされる。その対とはさまざまな層で覆われており、多くの層の中から最も必要なものをみつけられる身体観がその人の無意識レベルの高さを示しているのであろう。

令和2年1月1日

日々身体と心に気が付いたことを記録する場としたい。
新たな年が幕を開け世の中も同時に切り替わる。このお正月の間に冷静な何かを確立させたい。

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